空谷傳聲

学習日記

中国語作文

 今、大学の講義の一つ(外国人演習)で中国語での作文を習っています。ずっと中国語で進む授業自体初めての経験で、なかなか付いていけないところも多いのですが、何とか続けています。

 復習がてら、先生に添削していただいた自分の作文を打ち込んだので、ここに載せておきます。短めに仕上げる必要があり、内容はお恥ずかしいものですが。また、併せて下に訂正された点も載せています。たったこれだけの文章で数十カ所修正されましたので、下に載っているものはその中のほんの一部ですが…。

 尚、先生の中国語が聞き取れたのか自信がないところもあり、下の説明に誤りがあるかもしれません。何かありましたらご指摘お願いします。

 

西洋棋的记忆

我只去过一次外国,所以当时的记忆我永生难忘。

两年前,我参加了日本和俄罗斯之间的一个交流计划。十个日本的大学生一起去的俄罗斯,是为了俄罗斯西洋棋和日本将棋之间的交流活动。我们在这次交流活动里平时都使用英语聊天。

第三天的时候,我们访问了一个中学,是为了跟那里的中学生一起下西洋棋。他们不会说英语,而我们也不会说俄语,所以我们当时什么也说不出来。在一种太令人不愉快的静寂气氛里,西洋棋的比赛开始了。

我和我的对手都十分认真地坐在桌前一直思考。随着比赛的进行,我突然有了一种不可思议的、难以言喻的感觉: 我们无法通过语言来沟通,但是能够通过棋盘上的战斗来沟通。虽然我们两个人之间不但存在着彼此语言的差异,而且还有着十岁的年龄差别,但是我能够向他传达我想表达的意思、也能够理解对方的想法。我觉得这种情况才应该称为一种真正意义上的“沟通”。于是,大家比赛完了之后,房间里充满了一种温馨、快乐的气氛。

我体会到了,朋友之间的关系平时主要通过会话产生,但是有时不需要语言交流也能发展得相当不错。

 

○ 余談ですが、先生から「以棋会友」という素敵なタイトルを頂きました。『論語』篇の「以文会友」が連想されますね。

○全体的に、助動詞「会」の使い方を誤っているところが多いと指摘されました。一例を載せておきます。 

 原案:「我们这里什么也不会说话。」

 訂正後:「我们当时什么也说不出来。」

 この文の直前の「他们不会说英语,而我们也不会说俄语」は「その言語を話せない」ということで「会」で良いのですが、ここでも「会」を使うのは不自然とのこと。「不会说话」は赤ちゃんで言葉が喋れないといった場合や、「口下手」という意味で使うようです。

 原案:「我们通过语言不会沟通,但是通过棋的战斗会沟通。」

 訂正後:「我们无法通过语言来沟通,但是能够通过棋盘上的战斗来沟通。」

 「不会」を「无法」に、「会」を「能够」に直されたところは他にもありました。「手段がない」ときは「无法」「没有办法」が自然とのこと。また「来」が補われているのも、今の私にはなかなか難しいと感じます。

○「之间」は全て先生に補われたところ。「A和B之间的交流」「我们两个人之间存在着○○的差异」「朋友之间的关系」など。これはフレーズとして頭に入れなければなりません。

○「尴尬」:「第三天的时候」以下の段落の、「一种太令人不愉快的静寂气氛」といったような雰囲気を、一言で「尴尬」と表すそうです。

○「对手」と「对方」:前者は戦いの相手・ライバル、後者はコミュニケーションの相手、という違い。

○「于是」:「そこで」、文の接続を滑らかにする言葉。

○「我体会到了」:汎用性が高く、便利な表現。

○「成长」と「发展」:難しい使い分けですが、「成长」は「身体」「经济」などに使われるとのこと。考えてみれば、日本語でも「経済成長」「二国間関係の発展」と使い分けますかね。

○先生には、不自然な表現が多く実践練習が必要であるが、内容の構成や展開は良いとの評価でした。字数は少な目という指定だったので内容をまとめるのに苦労したのですが、これは万国で共通する能力なので嬉しいですね。しかし、「都」「还」「着」などさりげなく訂正されたところは沢山あり、やはり繰り返して流暢な感覚を身に付けなれば、と思いました。

 

 他にも沢山ありますが、このぐらいにしておきます。

『史記』儒林傳 10

 胡毋生,齊人也。孝景時為博士,以老歸教授。齊之言春秋者多受胡毋生,公孫弘亦頗受焉。

 瑕丘江生為穀梁春秋。自公孫弘得用,嘗集比其義,卒用董仲舒

 仲舒弟子遂者:蘭陵褚大,廣川殷忠,溫呂步舒。褚大至梁相。步舒至長史,持節使決淮南獄,於諸侯擅專斷,不報,以春秋之義正之,天子皆以為是。弟子通者,至於命大夫;為郎、謁者、掌故者以百數。而董仲舒子及孫皆以學至大官。

 胡毋生は公羊学において董仲舒と並び称される人物。公羊傳には齊語が多く齊とのかかわりが深いとされており、齊人の彼は大きな役割を担っただろうと考えられているようだ(日原利国『中国思想辞典』)。

 穀梁傳の記述は非常に短く、細かな系統が述べられるのは漢書になってから。よって穀梁傳が整理されたのは公羊傳より遅いとされている(野間文史『五経入門』)

 最後に董仲舒の弟子について簡単に述べられている。ちなみにここにある淮南王の反乱をそそのかしたのが以前出てきた田蚡である。

 

 【索隱述贊】孔氏之衰,經書緒亂。言諸六學,始自炎漢。著令立官,四方㧖腕。曲臺壞壁,書禮之冠。傳易言詩,雲蒸霧散。興化致理,鴻猷克贊。

 ・㧖 e4:把、握(『辞源』)

 

「索隱述贊」は史記三家注の一つの『索隱』(作者は唐の司馬貞)につけられている、史記本文へのコメントといった類のもの。儒林傳全体のまとめになっている。

『史記』儒林傳 09

 董仲舒,廣川人也。以治春秋,孝景時為博士。下帷講誦,弟子傳以久次相受業,或莫見其面,蓋三年董仲舒不觀於舍園,其精如此。進退容止,非禮不行,學士皆師尊之。今上即位,為江都相。以春秋災異之變推陰陽所以錯行,故求雨閉諸陽,縱諸陰,其止雨反是。行之一國,未嘗不得所欲。中廢為中大夫,居舍,著災異之記。是時遼東高廟災,主父偃疾之,取其書奏之天子。天子召諸生示其書,有刺譏。董仲舒弟子呂步舒不知其師書,以為下愚。於是下董仲舒吏,當死,詔赦之。於是董仲舒竟不敢復言災異。

ここからは春秋について。ほとんどは董仲舒に筆を割いている。「以春秋災異之變」から「著災異之記」で災異説について述べられ、「是時遼東高廟災」以下は董仲舒が災異説を捨てた経緯が書かれている。

董仲舒の段階での災異説は、神秘思想というより君主権力の増大を防ぐ意図があった、というのは定まった評価と言って良いのだろう。(重澤俊郎『董仲舒研究』など)

因みに、「蓋三年董仲舒不觀於舍園,其精如此」の部分は「そんな事はあり得ない、史書の誇張だ」と王充に言われている。甚だどうでもよいことにもツッコミを入れるのが王充らしいところだ。

 

 董仲舒為人廉直。是時方外攘四夷,公孫弘治春秋不如董仲舒,而弘希世用事,位至公卿。董仲舒以弘為從諛。弘疾之,乃言上曰:「獨董仲舒可使相繆西王。」膠西王素聞董仲舒有行,亦善待之。董仲舒恐久獲罪,疾免居家。至卒,終不治產業,以脩學著書為事。故漢興至于五世之閒,唯董仲舒名為明於春秋,其傳公羊氏也。

・希世 xi1shi4:迎合世俗、世所稀有(『辞源』)。ここでは前者の意味。

・產業 ceng3ye4:生産與作業、財産(『辞源』)。後者の意味か。

 

公孫弘は前半で出てきた人物。ここでは董仲舒を妬んだ人物として描かれている。

『史記』儒林傳 08

 諸學者多言禮,而魯高堂生最本。禮固自孔子時而其經不具,及至秦焚書,書散亡益多,於今獨有士禮,高堂生能言之。

 而魯徐生善為容。孝文帝時,徐生以容為禮官大夫。傳子至孫徐延、徐襄。襄,其天姿善為容,不能通禮經;延頗能,未善也。襄以容為漢禮官大夫,至廣陵內史。延及徐氏弟子公戶滿意、桓生、單次,皆嘗為漢禮官大夫。而瑕丘蕭奮以禮為淮陽太守。是後能言禮為容者,由徐氏焉。

・容 rong2:人的仪节有一定的法度(『新华字典』)

 

禮記の伝来に関する部分。孔子の時から經文がきちんと備わっておらず、漢代には高堂生による士禮しか伝わっていなかった。

次の段落は「禮官大夫」に任命された人物を列挙している。

 

 自魯商瞿受易孔子孔子卒,商瞿傳易,六世至齊人田何,字子莊,而漢興。田何傳東武人王同子仲,子仲傳菑川人楊何。何以易,元光元年徵,官至中大夫。齊人即墨成以易至城陽相。廣川人孟但以易為太子門大夫。魯人周霸,莒人衡胡,臨菑人主父偃,皆以易至二千石。然要言易者本於楊何之家。

ここは易の伝来を述べる。直線的に学問の系統が述べられている。

 

史記』においては禮、易に関する記述は以上で終わりと、非常にあっさりとしている。詩や書に比べると、禮、易、春秋はテキストが整わず学問系統も分かっていなかったのではないか、という気がする。

漢書』になると大分ボリュームが増して内容が濃くなるが。

『史記』儒林傳 07

 伏生者,濟南人也。故為秦博士。孝文帝時,欲求能治尚書者,天下無有,乃聞伏生能治,欲召之。是時伏生年九十餘,老,不能行,於是乃詔太常使掌故朝錯往受之。秦時焚書,伏生壁藏之。其後兵大起,流亡,漢定,伏生求其書,亡數十篇,獨得二十九篇,即以教于齊魯之閒。學者由是頗能言尚書,諸山東大師無不涉尚書以教矣。

 ここからは尚書の伝来について述べる。上の部分は難しいところは無さそうだが、内容は現行『尚書』の成立過程を考える上で非常に重要。「獨得二十九篇」がいわゆる今文尚書の部分である。

 伏生教濟南張生及歐陽生,歐陽生教千乘兒寬。兒寬既通尚書,以文學應郡舉,詣博士受業,受業孔安國。兒寬貧無資用,常為弟子都養,及時時閒行傭賃,以給衣食。行常帶經,止息則誦習之。以試第次,補廷尉史。是時張湯方鄉學,以為奏讞掾,以古法議決疑大獄,而愛幸寬。寬為人溫良,有廉智,自持,而善著書、書奏,敏於文,口不能發明也。湯以為長者,數稱譽之。及湯為御史大夫,以兒寬為掾,薦之天子。天子見問,說之。張湯死後六年,兒寬位至御史大夫。九年而以官卒。寬在三公位,以和良承意從容得久,然無有所匡諫;於官,官屬易之,不為盡力。張生亦為博士。而伏生孫以治尚書徵,不能明也。

 自此之後,魯周霸、孔安國,雒陽賈嘉,頗能言尚書事。孔氏有古文尚書,而安國以今文讀之,因以起其家。逸書得十餘篇,蓋尚書滋多於是矣。

・傭賃 yong1lin4:受雇為人労役(『辞源』)

・讞 yan4:審判定罪(『新華字典』)

・敏於文:如何にも『論語』にありそう、と思って調べてみたが「敏於事」「敏於行」辺りしか出てこない。

 

伏生→張生・歐陽生→兒寬…という伏生以下の尚書の学問系統が語られ、以下は主に兒寬の伝記が示されている。張湯の「以古法議決疑大獄」は董仲舒の春秋決疑を思い起こすところ。

孔安國らと古文尚書の関係も少し示されている。

 

xing2 chang2 dai4 jing1, zhi3 xi1 ze2 song4 xi2 zhi1

「行常帶經,止息則誦習之」

真似しなければならないですね。。。

『史記』儒林傳 06

 清河王太傅轅固生者,齊人也。以治詩,孝景時為博士。與黃生爭論景帝前。黃生曰:「湯武非受命,乃弒也。」轅固生曰:「不然。夫桀紂虐亂,天下之心皆歸湯武,湯武與天下之心而誅桀紂桀紂之民不為之使而歸湯武,湯武不得已而立,非受命為何?」黃生曰:「冠雖敝,必加於首;履雖新,必關於足。何者,上下之分也。今桀紂雖失道,然君上也;湯武雖聖,臣下也。夫主有失行,臣下不能正言匡過以尊天子,反因過而誅之,代立踐南面,非弒而何也?」轅固生曰:「必若所云,是高帝代秦即天子之位,非邪?」於是景帝曰:「食肉不食馬肝,不為不知味;言學者無言湯武受命,不為愚。」遂罷。是後學者莫敢明受命放殺者。

湯武 tang1wu3:殷の湯王・周の武王

桀紂 jie2zhou4:夏の桀王・殷の紂王

 

ここからは斉詩の伝来について。ここは轅固生と黃生の論争について書かれている段。テーマは「湯王・武王による前王朝の討伐は、弑なのか受名なのか」といったところか。最後の景帝の言葉は、「食肉」が「言學者」に、「不食馬肝」が「無言湯武受命」に喩えられているのは分かるが、実際どういうニュアンスで喩えられているのかよく分かっていない。

 

 竇太后老子書,召轅固生問老子書。固曰:「此是家人言耳。」太后怒曰:「安得司空城旦書乎?」乃使固入圈刺豕。景帝知太后怒而固直言無罪,乃假固利兵,下圈刺豕,正中其心,一刺,豕應手而倒。太后默然,無以復罪,罷之。居頃之,景帝以固為廉直,拜為清河王太傅。久之,病免。

・圈 juan4:養家畜的柵欄(『新華字典』)

・豕 shi3:猪(『新華字典』)、日本でいう豚。

 

これまでに出てきた儒者同様、轅固生も竇太后に酷い目に遭わされている。

 

 今上初即位,復以賢良徵固。諸諛儒多疾毀固,曰「固老」,罷歸之。時固已九十餘矣。固之徵也,薛人公孫弘亦徵,側目而視固。固曰:「公孫子,務正學以言,無曲學以阿世!」自是之後,齊言詩皆本轅固生也。諸齊人以詩顯貴,皆固之弟子也。

以上が斉詩の伝来について述べた部分である。それほど難しくはない。

 

gong1sun1zi3,wu4 zheng4xue2 yi3 yan2,wu2 qu3xue2 yi3 e1shi4!」

「公孫子,務正學以言,無曲學以阿世!」

「曲學阿世」の出典。

 

 韓生者,燕人也。孝文帝時為博士,景帝時為常山王太傅。韓生推詩之意而為內外傳數萬言,其語頗與齊魯閒殊,然其歸一也。淮南賁生受之。自是之後,而燕趙閒言詩者由韓生。韓生孫商為今上博士。

ここは韓詩の説明だが、非常に簡潔な文章で終わっている。

以上の詩三家は全て滅びたが、その中でもっともよく現在に残っているものは韓詩ということになるのだろう。しかしその韓詩の傳が最も少ないのは面白い。

『史記』儒林傳 05

 申公者,魯人也。高祖過魯,申公以弟子從師入見高祖于魯南宮。呂太后時,申公游學長安,與劉郢同師。已而郢為楚王,令申公傅其太子戊。戊不好學,疾申公。及王郢卒,戊立為楚王,胥靡申公。申公恥之,歸魯,退居家教,終身不出門,復謝絕賓客,獨王命召之乃往。弟子自遠方至受業者百餘人。申公獨以詩經為訓以教,無傳,疑者則闕不傳。

・胥 xu1:古代的小吏(『新華字典』)

・靡 mi4:集解に「腐刑也」とある。辞書を開いても出てこない用例。

・疑者則闕不傳:『論語』為政の「多聞闕疑」を想起させる。

 

ここからは、五経それぞれの伝来について述べられている。まずは『詩』三家の一つである『魯詩』を伝えた申公から。

申公は楚王の劉郢に重用されたが、その皇太子の戊には嫌われ、劉郢が死ぬと腐刑に処されてしまい、実家に戻って弟子に教授する日々だったようだ。ところで「無傳」はどういう意味だろうか?

 蘭陵王臧既受詩,以事孝景帝為太子少傅,免去。今上初即位,臧迺上書宿衞上,累遷,一歲中為郎中令。及代趙綰亦嘗受詩申公,綰為御史大夫。綰、臧請天子,欲立明堂以朝諸侯,不能就其事,乃言師申公。於是天子使使束帛加璧安車駟馬迎申公,弟子二人乘軺傳從。至,見天子。天子問治亂之事,申公時已八十餘,老,對曰:「為治者不在多言,顧力行何如耳。」是時天子方好文詞,見申公對,默然。然已招致,則以為太中大夫,舍魯邸,議明堂事。太皇竇太后老子言,不說儒術,得趙綰、王臧之過以讓上,上因廢明堂事,盡下趙綰、王臧吏,後皆自殺。申公亦疾免以歸,數年卒。

・迺 nai3:「乃」に同じ

 

王臧、趙綰はこれまでに名前が挙がっている。やはり竇太后老荘好みで、この時期は儒者にとっては不遇の時代であったようだ。

 

以下の言葉は、年老い儒者の最後の一言といった趣きで、味わい深い。

wei2 zhi4 zhe3 bu2 zai4 duo1 yan2, gu4 li4 xing2 he2 ru2 er3。

「為治者不在多言,顧力行何如耳。」

 

 弟子為博士者十餘人:孔安國至臨淮太守,周霸至膠西內史,夏寬至城陽內史,碭魯賜至東海太守,蘭陵繆生至長沙內史,徐偃為膠西中尉,鄒人闕門慶忌為膠東內史。其治官民皆有廉節,稱其好學。學官弟子行雖不備,而至於大夫、郎中、掌故以百數。言詩雖殊,多本於申公。

廉節 lian2jie2:清く正しい節操・信念

 

申公の弟子の名前が羅列されている。孔安國はやはり尚書のイメージが強いので、ここで名前が出てくるのは少し意外であった。