空谷傳聲

学習日記

『史記』儒林傳 03

 及高皇帝誅項籍,舉兵圍魯,魯中諸儒尚講誦習禮樂,弦歌之音不絕,豈非聖人之遺化,好禮樂之國哉?故孔子在陳,曰「歸與歸與!吾黨之小子狂簡,斐然成章,不知所以裁之」。夫齊魯之閒於文學,自古以來,其天性也。故漢興,然後諸儒始得脩其經蓺,講習大射鄉飲之禮。叔孫通作漢禮儀,因為太常,諸生弟子共定者,咸為選首,於是喟然歎興於學。然尚有干戈,平定四海,亦未暇遑庠序之事也。孝惠、呂后時,公卿皆武力有功之臣。孝文時頗徵用,然孝文帝本好刑名之言。及至孝景,不任儒者,而竇太后又好黃老之術,故諸博士具官待問,未有進者。

・歸與歸與!吾黨之小子狂簡,斐然成章,不知所以裁之。:『論語』公治長

・叔孫通 shu1sun1tong1:『史記』『漢書』に傳あり。秦代をしぶとく生き抜き、漢代に重用された儒者

・暇遑 xia2huang2:時間に余裕がある

・庠序 xiang2xu4:学校のこと。『孟子』騰文公:「鄉里有教,夏曰校,殷曰序,周曰庠。」

 

前漢初期の学問の様子を述べている。

高皇帝の時は叔孫通が出たが、まだ戦火もあって教育制度はできなかった。孝惠、呂后の時は武力の功績がある臣下ばかりだった。孝文帝の時少し儒者が用いられたが、彼は法家を好む所があった。孝景帝に至ってもまだ、儒者は任ぜられず、それどころか竇太后老荘思想を好んだ。つまり、司馬遷の前代まで、儒学は未だ重んじられていなかったのである。

 

 及今上即位,趙綰、王臧之屬明儒學,而上亦鄉之,於是招方正賢良文學之士。自是之後,言詩於魯則申培公,於齊則轅固生,於燕則韓太傅。言尚書自濟南伏生。言禮自魯高堂生。言易自菑川田生。言春秋於齊魯自胡毋生,於趙自董仲舒。及竇太后崩,武安侯田蚡為丞相,絀黃老、刑名百家之言,延文學儒者數百人,而公孫弘以春秋白衣為天子三公,封以平津侯。天下之學士靡然鄉風矣。

・趙綰 zhao4wan3、王臧 wang2zang1

・田蚡 tian2fen2:『史記』魏其武安侯列傳、『漢書』田蚡列傳に見える。

・公孫弘 gong1sun1hong2:『史記』平津侯主父列傳

・白衣 bai2yi1:仕宦していない人、平民、功績のない人

・靡然 mi2ran3:一面倒れる様子

 

武帝の即位により、一気に儒者が重んじられるようになった過程を述べる。詩の三家(申培公,轅固生,韓太傅)、尚書の伏生、禮の高堂生、易の菑川田生、春秋の胡毋生と董仲舒が出て五経が伝えられた。ここに至って、儒学の道が大きく栄えることとなるのである。

此の辺りで挙げられている儒者については、読み進めていくと詳しい説明がある。

『史記』儒林傳 02

 自孔子卒後,七十子之徒散游諸侯,大者為師傅卿相,小者友教士大夫,或隱而不見。故子路居衞,子張居陳,澹臺子羽居楚,子夏居西河,子貢終於齊。如田子方、段干木、吳起、禽滑釐之屬,皆受業於子夏之倫,為王者師。是時獨魏文侯好學。後陵遲以至于始皇,天下並爭於戰國,儒術既絀焉,然齊魯之閒,學者獨不廢也。於威、宣之際,孟子、荀卿之列,咸遵夫子之業而潤色之,以學顯於當世。

・陵遲 ling2chi2:徐々に衰える。

・潤色 run4se4:文章を修飾する。『論語』憲問に見える。

 

孔子の弟子や子夏の弟子の名前が次々と出てきます。私が耳馴れなかった人を簡単にメモしておきます。

・澹臺子羽 dan4tai2zi3yu3:澹臺滅明のこと。『論語』雍也、『史記』仲尼弟子列傳に見える。「以貌取人」のエピソードの人。

・田子方 tian2zi3fang1、段干木 duan4gan1mu4:子夏とともに賢者として魏文侯に仕える。『史記』魏世家

・禽滑釐 qin2hua2li2:もと子夏に師事したが、のちに墨家に転向。まとまった伝は無いようだ。

 

孔子の死後まず学が受け継がれたのは、魏文侯の下であった。戦国期に入ると、斉と魯で盛んになったようだ。斉は稷下で学士を養成していた話があるし、魯は言うまでもない。その後孟子荀子が現れる。

 

 及至秦之季世,焚詩書,阬術士,六蓺從此缺焉。陳涉之王也,而魯諸儒持孔氏之禮器往歸陳王。於是孔甲為陳涉博士,卒與涉俱死。陳涉起匹夫,驅瓦合適戍,旬月以王楚,不滿半歲竟滅亡,其事至微淺,然而縉紳先生之徒負孔子禮器往委質為臣者,何也?以秦焚其業,積怨而發憤于陳王也。

・陳渉 chen2she4:陳勝のこと。陳勝呉広の乱を起こして一時楚を占領した。

・縉紳 jin4shen1:仕宦した人、官吏。

 

秦代の焚書坑儒によって六藝が失われたが、陳勝が蜂起し楚を占領すると、世の儒者孔子の礼制や器物を持って陳勝に帰した。陳勝はすぐ滅ぶ程度の存在であったのに儒者が頼ったのは理由は、秦の焚書に耐えられなかったからだ(然而~何也?の答えが以~~という構造)。

 

今日の部分が秦まで、次回で漢代の話に入る。

『史記』儒林傳 01

tai4 shi3 gong1 yue1: yu2 du2 gong1 ling4, zhi4 yu2 guang3 li4 xue2 guan1 zhi1 lu4,

太史公曰、余讀功令、至於廣厲學官之路、

wei4 chang2 bu4 fei4 shu1 er2 tan4 ye3。

未嘗不廢書而歎也。

yue1: jie1 hu1, fu1 zhou1 shi4 shuai1 er2 guan1 ju1 zuo4,

曰、嗟乎。夫周室衰而關雎作、

you1 li4 wei1 er2 li3 yue4 huai4, zhu1 hou2 zi4 xing2, zheng4 you2 qiang2 guo2。

幽厲微而禮樂壞、諸侯恣行、政由彊國。

gu4 kong3 zi3 min3 wang2 lu4 fei4 er xie2 dao4 xing1,

孔子閔王路廢而邪道興、

yu2 shi4 lun4 ci4 shi1 shu1, xiu1 qi3 li3 yue4。

於是論次詩書、修起禮樂。

shi4 qi2 wen2 shao2, san1 yue4 bu4 zhi1 rou4 wei4。

適齊聞韶、三月不知肉味。

zi4 wei4 fan3 lu3, ran2 hou4 yue4 zheng4, ya3 song4 ge4 de2 qi2 suo3。

自衞返魯、然後樂正、雅頌各得其所。

shi4 yi3 hun4 zhuo2 mo4 neng2 yong4,

世以混濁莫能用、

shi4 yi3 zhong4 ni2 gan1 qi1 shi2 yu2 jun1 wu2 suo3 yu4,

是以仲尼干七十餘君無所遇、

yue1「 gou3 you3 yong4 wo3 zhe3, qi1 yue4 er2 yi3 yi3」。

曰「苟有用我者、期月而已矣」。

xi1 shou4 huo4 lin2, yue1「 wu2 dao4 qiong2 yi3」。

西狩獲麟、曰「吾道窮矣」。

gu4 yin1 shi3 ji4 zuo4 chun1 qiu1, yi3 dang1 wang2 fa3,

故因史記作春秋、以當王法、

qi2 ci2 wei1 e2(er) zhi3 bo2, hou4 shi4 xue2 zhe3 duo1 lu4 yan1。

其辭微而指博、後世學者多錄焉。

<典拠>

・適齊聞韶、三月不知肉味。

 『論語』述而

・自衞返魯、然後樂正、雅頌各得其所。

 『論語』子罕

・苟有用我者、期月而已矣。

 『論語子路

・西狩獲麟、曰「吾道窮矣」。

 『春秋公羊傳』哀公十四年

 

<言葉>

・功令 gong1ling4:古代国家における官吏選抜の法。(漢典)

・幽厲 you1li4:周代の幽王・厲王のこと。周の衰退期に当たる。

 

<メモ>

・「至於廣厲學官之路」は訓読すれば「廣く學官を厲ますの路に至る」といった具合か。

・「因史記作春秋」の「史記」は「魯史記」のことか。

 

ざっと内容を述べると、「周が衰えて正しい政治の在り方が失われてしまったが、孔子が現れて詩書禮樂の整備に当たった。しかし孔子は王に取り入れられることがなかったため、理想の政治を実践の場に移すことは叶わなかった。そこで『春秋』を書き王法を残した。」といったところでしょうか。

史記では「太史公曰…」の部分(つまり司馬遷の所見を述べる部分)は篇の末尾に置かれるのが通例ですが、この篇では冒頭に置かれています。

 

冒頭部分ということで「新華字典」を参考にピンインを書いておきましたが、非常に手間がかかるので次回以降は省略します。

『史記』儒林傳 00

まずは『史記』儒林傳から。全文を掲示しておきます。

中央研究院のものを利用させて頂いていますが、底本は中華書局本(修訂版)とし、誤りは発見次第修正します。

 

 太史公曰:余讀功令,至於廣厲學官之路,未嘗不廢書而歎也。曰:嗟乎!夫周室衰而關雎作,幽厲微而禮樂壞,諸侯恣行,政由彊國。故孔子閔王路廢而邪道興,於是論次詩書,修起禮樂。適齊聞韶,三月不知肉味。自衞返魯,然後樂正,雅頌各得其所。世以混濁莫能用,是以仲尼干七十餘君無所遇,曰「苟有用我者,期月而已矣」。西狩獲麟,曰「吾道窮矣」。故因史記作春秋,以當王法,其辭微而指博,後世學者多錄焉。

 自孔子卒後,七十子之徒散游諸侯,大者為師傅卿相,小者友教士大夫,或隱而不見。故子路居衞,子張居陳,澹臺子羽居楚,子夏居西河,子貢終於齊。如田子方、段干木、吳起、禽滑釐之屬,皆受業於子夏之倫,為王者師。是時獨魏文侯好學。後陵遲以至于始皇,天下並爭於戰國,儒術既絀焉,然齊魯之閒,學者獨不廢也。於威、宣之際,孟子、荀卿之列,咸遵夫子之業而潤色之,以學顯於當世。

 及至秦之季世,焚詩書,阬術士,六蓺從此缺焉。陳涉之王也,而魯諸儒持孔氏之禮器往歸陳王。於是孔甲為陳涉博士,卒與涉俱死。陳涉起匹夫,驅瓦合適戍,旬月以王楚,不滿半歲竟滅亡,其事至微淺,然而縉紳先生之徒負孔子禮器往委質為臣者,何也?以秦焚其業,積怨而發憤于陳王也。

 及高皇帝誅項籍,舉兵圍魯,魯中諸儒尚講誦習禮樂,弦歌之音不絕,豈非聖人之遺化,好禮樂之國哉?故孔子在陳,曰「歸與歸與!吾黨之小子狂簡,斐然成章,不知所以裁之」。夫齊魯之閒於文學,自古以來,其天性也。故漢興,然後諸儒始得脩其經蓺,講習大射鄉飲之禮。叔孫通作漢禮儀,因為太常,諸生弟子共定者,咸為選首,於是喟然歎興於學。然尚有干戈,平定四海,亦未暇遑庠序之事也。孝惠、呂后時,公卿皆武力有功之臣。孝文時頗徵用,然孝文帝本好刑名之言。及至孝景,不任儒者,而竇太后又好黃老之術,故諸博士具官待問,未有進者。

 及今上即位,趙綰、王臧之屬明儒學,而上亦鄉之,於是招方正賢良文學之士。自是之後,言詩於魯則申培公,於齊則轅固生,於燕則韓太傅。言尚書自濟南伏生。言禮自魯高堂生。言易自菑川田生。言春秋於齊魯自胡毋生,於趙自董仲舒。及竇太后崩,武安侯田蚡為丞相,絀黃老、刑名百家之言,延文學儒者數百人,而公孫弘以春秋白衣為天子三公,封以平津侯。天下之學士靡然鄉風矣。

 公孫弘為學官,悼道之鬱滯,乃請曰:「丞相御史言:制曰『蓋聞導民以禮,風之以樂。婚姻者,居室之大倫也。今禮廢樂崩,朕甚愍焉。故詳延天下方正博聞之士,咸登諸朝。其令禮官勸學,講議洽聞興禮,以為天下先。太常議,與博士弟子,崇鄉里之化,以廣賢材焉』。謹與太常臧、博士平等議曰:聞三代之道,鄉里有教,夏曰校,殷曰序,周曰庠。其勸善也,顯之朝廷;其懲惡也,加之刑罰。故教化之行也,建首善自京師始,由內及外。今陛下昭至德,開大明,配天地,本人倫,勸學脩禮,崇化厲賢,以風四方,太平之原也。古者政教未洽,不備其禮,請因舊官而興焉。為博士官置弟子五十人,復其身。太常擇民年十八已上,儀狀端正者,補博士弟子。郡國縣道邑有好文學,敬長上,肅政教,順鄉里,出入不悖所聞者,令相長丞上屬所二千石,二千石謹察可者,當與計偕,詣太常,得受業如弟子。一歲皆輒試,能通一蓺以上,補文學掌故缺;其高弟可以為郎中者,太常籍奏。即有秀才異等,輒以名聞。其不事學若下材及不能通一蓺,輒罷之,而請諸不稱者罰。臣謹案詔書律令下者,明天人分際,通古今之義,文章爾雅,訓辭深厚,恩施甚美。小吏淺聞,不能究宣,無以明布諭下。治禮次治掌故,以文學禮義為官,遷留滯。請選擇其秩比二百石以上,及吏百石通一蓺以上,補左右內史、大行卒史;比百石已下,補郡太守卒史:皆各二人,邊郡一人。先用誦多者,若不足,乃擇掌故補中二千石屬,文學掌故補郡屬,備員。請著功令。佗如律令。」制曰:「可。」自此以來,則公卿大夫士吏斌斌多文學之士矣。

 申公者,魯人也。高祖過魯,申公以弟子從師入見高祖于魯南宮。呂太后時,申公游學長安,與劉郢同師。已而郢為楚王,令申公傅其太子戊。戊不好學,疾申公。及王郢卒,戊立為楚王,胥靡申公。申公恥之,歸魯,退居家教,終身不出門,復謝絕賓客,獨王命召之乃往。弟子自遠方至受業者百餘人。申公獨以詩經為訓以教,無傳,疑者則闕不傳。

 蘭陵王臧既受詩,以事孝景帝為太子少傅,免去。今上初即位,臧迺上書宿衞上,累遷,一歲中為郎中令。及代趙綰亦嘗受詩申公,綰為御史大夫。綰、臧請天子,欲立明堂以朝諸侯,不能就其事,乃言師申公。於是天子使使束帛加璧安車駟馬迎申公,弟子二人乘軺傳從。至,見天子。天子問治亂之事,申公時已八十餘,老,對曰:「為治者不在多言,顧力行何如耳。」是時天子方好文詞,見申公對,默然。然已招致,則以為太中大夫,舍魯邸,議明堂事。太皇竇太后老子言,不說儒術,得趙綰、王臧之過以讓上,上因廢明堂事,盡下趙綰、王臧吏,後皆自殺。申公亦疾免以歸,數年卒。

 弟子為博士者十餘人:孔安國至臨淮太守,周霸至膠西內史,夏寬至城陽內史,碭魯賜至東海太守,蘭陵繆生至長沙內史,徐偃為膠西中尉,鄒人闕門慶忌為膠東內史。其治官民皆有廉節,稱其好學。學官弟子行雖不備,而至於大夫、郎中、掌故以百數。言詩雖殊,多本於申公。

 清河王太傅轅固生者,齊人也。以治詩,孝景時為博士。與黃生爭論景帝前。黃生曰:「湯武非受命,乃弒也。」轅固生曰:「不然。夫桀紂虐亂,天下之心皆歸湯武,湯武與天下之心而誅桀紂桀紂之民不為之使而歸湯武,湯武不得已而立,非受命為何?」黃生曰:「冠雖敝,必加於首;履雖新,必關於足。何者,上下之分也。今桀紂雖失道,然君上也;湯武雖聖,臣下也。夫主有失行,臣下不能正言匡過以尊天子,反因過而誅之,代立踐南面,非弒而何也?」轅固生曰:「必若所云,是高帝代秦即天子之位,非邪?」於是景帝曰:「食肉不食馬肝,不為不知味;言學者無言湯武受命,不為愚。」遂罷。是後學者莫敢明受命放殺者。

 竇太后老子書,召轅固生問老子書。固曰:「此是家人言耳。」太后怒曰:「安得司空城旦書乎?」乃使固入圈刺豕。景帝知太后怒而固直言無罪,乃假固利兵,下圈刺豕,正中其心,一刺,豕應手而倒。太后默然,無以復罪,罷之。居頃之,景帝以固為廉直,拜為清河王太傅。久之,病免。

 今上初即位,復以賢良徵固。諸諛儒多疾毀固,曰「固老」,罷歸之。時固已九十餘矣。固之徵也,薛人公孫弘亦徵,側目而視固。固曰:「公孫子,務正學以言,無曲學以阿世!」自是之後,齊言詩皆本轅固生也。諸齊人以詩顯貴,皆固之弟子也。

 韓生者,燕人也。孝文帝時為博士,景帝時為常山王太傅。韓生推詩之意而為內外傳數萬言,其語頗與齊魯閒殊,然其歸一也。淮南賁生受之。自是之後,而燕趙閒言詩者由韓生。韓生孫商為今上博士。

 伏生者,濟南人也。故為秦博士。孝文帝時,欲求能治尚書者,天下無有,乃聞伏生能治,欲召之。是時伏生年九十餘,老,不能行,於是乃詔太常使掌故朝錯往受之。秦時焚書,伏生壁藏之。其後兵大起,流亡,漢定,伏生求其書,亡數十篇,獨得二十九篇,即以教于齊魯之閒。學者由是頗能言尚書,諸山東大師無不涉尚書以教矣。

 伏生教濟南張生及歐陽生,歐陽生教千乘兒寬。兒寬既通尚書,以文學應郡舉,詣博士受業,受業孔安國。兒寬貧無資用,常為弟子都養,及時時閒行傭賃,以給衣食。行常帶經,止息則誦習之。以試第次,補廷尉史。是時張湯方鄉學,以為奏讞掾,以古法議決疑大獄,而愛幸寬。寬為人溫良,有廉智,自持,而善著書、書奏,敏於文,口不能發明也。湯以為長者,數稱譽之。及湯為御史大夫,以兒寬為掾,薦之天子。天子見問,說之。張湯死後六年,兒寬位至御史大夫。九年而以官卒。寬在三公位,以和良承意從容得久,然無有所匡諫;於官,官屬易之,不為盡力。張生亦為博士。而伏生孫以治尚書徵,不能明也。

 自此之後,魯周霸、孔安國,雒陽賈嘉,頗能言尚書事。孔氏有古文尚書,而安國以今文讀之,因以起其家。逸書得十餘篇,蓋尚書滋多於是矣。

 諸學者多言禮,而魯高堂生最本。禮固自孔子時而其經不具,及至秦焚書,書散亡益多,於今獨有士禮,高堂生能言之。

 而魯徐生善為容。孝文帝時,徐生以容為禮官大夫。傳子至孫徐延、徐襄。襄,其天姿善為容,不能通禮經;延頗能,未善也。襄以容為漢禮官大夫,至廣陵內史。延及徐氏弟子公戶滿意、桓生、單次,皆嘗為漢禮官大夫。而瑕丘蕭奮以禮為淮陽太守。是後能言禮為容者,由徐氏焉。

 自魯商瞿受易孔子孔子卒,商瞿傳易,六世至齊人田何,字子莊,而漢興。田何傳東武人王同子仲,子仲傳菑川人楊何。何以易,元光元年徵,官至中大夫。齊人即墨成以易至城陽相。廣川人孟但以易為太子門大夫。魯人周霸,莒人衡胡,臨菑人主父偃,皆以易至二千石。然要言易者本於楊何之家。

 董仲舒,廣川人也。以治春秋,孝景時為博士。下帷講誦,弟子傳以久次相受業,或莫見其面,蓋三年董仲舒不觀於舍園,其精如此。進退容止,非禮不行,學士皆師尊之。今上即位,為江都相。以春秋災異之變推陰陽所以錯行,故求雨閉諸陽,縱諸陰,其止雨反是。行之一國,未嘗不得所欲。中廢為中大夫,居舍,著災異之記。是時遼東高廟災,主父偃疾之,取其書奏之天子。天子召諸生示其書,有刺譏。董仲舒弟子呂步舒不知其師書,以為下愚。於是下董仲舒吏,當死,詔赦之。於是董仲舒竟不敢復言災異。

 董仲舒為人廉直。是時方外攘四夷,公孫弘治春秋不如董仲舒,而弘希世用事,位至公卿。董仲舒以弘為從諛。弘疾之,乃言上曰:「獨董仲舒可使相繆西王。」膠西王素聞董仲舒有行,亦善待之。董仲舒恐久獲罪,疾免居家。至卒,終不治產業,以脩學著書為事。故漢興至于五世之閒,唯董仲舒名為明於春秋,其傳公羊氏也。

 胡毋生,齊人也。孝景時為博士,以老歸教授。齊之言春秋者多受胡毋生,公孫弘亦頗受焉。

 瑕丘江生為穀梁春秋。自公孫弘得用,嘗集比其義,卒用董仲舒

 仲舒弟子遂者:蘭陵褚大,廣川殷忠,溫呂步舒。褚大至梁相。步舒至長史,持節使決淮南獄,於諸侯擅專斷,不報,以春秋之義正之,天子皆以為是。弟子通者,至於命大夫;為郎、謁者、掌故者以百數。而董仲舒子及孫皆以學至大官。

 【索隱述贊】孔氏之衰,經書緒亂。言諸六學,始自炎漢。著令立官,四方㧖腕。曲臺壞壁,書禮之冠。傳易言詩,雲蒸霧散。興化致理,鴻猷克贊。

当面の予定

手始めに、『史記』儒林傳、『漢書』儒林傳あたりをこのブログにメモしながら読み進めていきたいと思います。取り敢えず本文をどんどん進み、注は時おりまとめて振り返って参考にする、という方向で行こうと考えています。

時おり休憩がてら、別の話題も書くと思いますが…。

 

このブログを作った大きな動機は、文言基礎という千字文の学習を掲げたサイトに感銘を受け、自分も学習日記を書こうと考えたことです。

というわけで、漢文の学習方針も文言基礎様に倣うのが自分の中では理想的です。即ち以下の部分。

倉石武四郎(1897-1975)の提唱した中国古典学習、すなわち、現代漢語を基礎として古典学習を実践することが目的です。 

このサイトについて - 文言基礎

訓読に頼らず、現代中国語の音で読めるようになる、というのが最終的な目標です。

千字文の暗誦には引き続き取り組みつつ、とりあえず読みたい文章を読み進めていきたいと思います。何といっても「尺璧非寶 寸陰是競」、読みたい時に読む時間があるのなら、読まなければならないと思うのです。

開設

勉強したこと、考えたこと、観た映画、読んだ本…などなど、気まぐれに書き綴る所存です。

 

日記と呼べるほど頻繁に更新することはないでしょうが、宜しくお願いします。