空谷傳聲

学習日記

『史記』儒林傳 07

 伏生者,濟南人也。故為秦博士。孝文帝時,欲求能治尚書者,天下無有,乃聞伏生能治,欲召之。是時伏生年九十餘,老,不能行,於是乃詔太常使掌故朝錯往受之。秦時焚書,伏生壁藏之。其後兵大起,流亡,漢定,伏生求其書,亡數十篇,獨得二十九篇,即以教于齊魯之閒。學者由是頗能言尚書,諸山東大師無不涉尚書以教矣。

 ここからは尚書の伝来について述べる。上の部分は難しいところは無さそうだが、内容は現行『尚書』の成立過程を考える上で非常に重要。「獨得二十九篇」がいわゆる今文尚書の部分である。

 伏生教濟南張生及歐陽生,歐陽生教千乘兒寬。兒寬既通尚書,以文學應郡舉,詣博士受業,受業孔安國。兒寬貧無資用,常為弟子都養,及時時閒行傭賃,以給衣食。行常帶經,止息則誦習之。以試第次,補廷尉史。是時張湯方鄉學,以為奏讞掾,以古法議決疑大獄,而愛幸寬。寬為人溫良,有廉智,自持,而善著書、書奏,敏於文,口不能發明也。湯以為長者,數稱譽之。及湯為御史大夫,以兒寬為掾,薦之天子。天子見問,說之。張湯死後六年,兒寬位至御史大夫。九年而以官卒。寬在三公位,以和良承意從容得久,然無有所匡諫;於官,官屬易之,不為盡力。張生亦為博士。而伏生孫以治尚書徵,不能明也。

 自此之後,魯周霸、孔安國,雒陽賈嘉,頗能言尚書事。孔氏有古文尚書,而安國以今文讀之,因以起其家。逸書得十餘篇,蓋尚書滋多於是矣。

・傭賃 yong1lin4:受雇為人労役(『辞源』)

・讞 yan4:審判定罪(『新華字典』)

・敏於文:如何にも『論語』にありそう、と思って調べてみたが「敏於事」「敏於行」辺りしか出てこない。

 

伏生→張生・歐陽生→兒寬…という伏生以下の尚書の学問系統が語られ、以下は主に兒寬の伝記が示されている。張湯の「以古法議決疑大獄」は董仲舒の春秋決疑を思い起こすところ。

孔安國らと古文尚書の関係も少し示されている。

 

xing2 chang2 dai4 jing1, zhi3 xi1 ze2 song4 xi2 zhi1

「行常帶經,止息則誦習之」

真似しなければならないですね。。。