空谷傳聲

学習日記

『史記』儒林傳 09

 董仲舒,廣川人也。以治春秋,孝景時為博士。下帷講誦,弟子傳以久次相受業,或莫見其面,蓋三年董仲舒不觀於舍園,其精如此。進退容止,非禮不行,學士皆師尊之。今上即位,為江都相。以春秋災異之變推陰陽所以錯行,故求雨閉諸陽,縱諸陰,其止雨反是。行之一國,未嘗不得所欲。中廢為中大夫,居舍,著災異之記。是時遼東高廟災,主父偃疾之,取其書奏之天子。天子召諸生示其書,有刺譏。董仲舒弟子呂步舒不知其師書,以為下愚。於是下董仲舒吏,當死,詔赦之。於是董仲舒竟不敢復言災異。

ここからは春秋について。ほとんどは董仲舒に筆を割いている。「以春秋災異之變」から「著災異之記」で災異説について述べられ、「是時遼東高廟災」以下は董仲舒が災異説を捨てた経緯が書かれている。

董仲舒の段階での災異説は、神秘思想というより君主権力の増大を防ぐ意図があった、というのは定まった評価と言って良いのだろう。(重澤俊郎『董仲舒研究』など)

因みに、「蓋三年董仲舒不觀於舍園,其精如此」の部分は「そんな事はあり得ない、史書の誇張だ」と王充に言われている。甚だどうでもよいことにもツッコミを入れるのが王充らしいところだ。

 

 董仲舒為人廉直。是時方外攘四夷,公孫弘治春秋不如董仲舒,而弘希世用事,位至公卿。董仲舒以弘為從諛。弘疾之,乃言上曰:「獨董仲舒可使相繆西王。」膠西王素聞董仲舒有行,亦善待之。董仲舒恐久獲罪,疾免居家。至卒,終不治產業,以脩學著書為事。故漢興至于五世之閒,唯董仲舒名為明於春秋,其傳公羊氏也。

・希世 xi1shi4:迎合世俗、世所稀有(『辞源』)。ここでは前者の意味。

・產業 ceng3ye4:生産與作業、財産(『辞源』)。後者の意味か。

 

公孫弘は前半で出てきた人物。ここでは董仲舒を妬んだ人物として描かれている。